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なぜ今、納骨堂なのか

なぜ今、納骨堂なのか


納骨堂文化時代をめざして

拝啓

 納骨堂を提供されるお寺様。そして納骨堂をお求めの皆様。
謹んで、納骨堂紹介センターが設立されるまでについて申し上げます。

 平成16年9月12日。私の郷里の宮崎は雨でした。
 山奥に眠る父母の墓石はしとどに濡れ、寒々しく感じたのをよく覚えています。
 「いつか東京に移して毎月お参りするからナ」と、去年やおととしと同じような言い訳を、心の中でつぶやきました。

 帰りの車中で、従兄弟の友人が私に言いました。
「甲斐さん、ちょっと私の会社に立ち寄って行かれませんか?」
 彼は加行俊一といい、九州地区1280寺院に納骨堂を普及させた実績を持つ、株式会社ニッケンの代表取締役でした。お言葉に甘えて彼の会社に立ち寄りましたが、それが私の人生を変えるきっかけになるとは夢にも思っていませんでした。

 生まれて初めて、納骨壇の輝くばかりの大デレゲーションを目の当たりにし、「美しさ」「優雅さ」「温かさ」を感じた私は、「そうだ、この納骨壇に父母のお骨を納めよう」と決心していました。

 東京へと帰る飛行機に乗りながら、納骨堂について熱意をこめて語る加行氏の姿を思い出していました。氏に手渡されたパンフレットをつぶさに読みながら、父母を納骨堂に納めることとは別に、もうひとつの決心をしていました。それは<納骨堂の仕事に関わりたい>という決心でした。

 東京に帰って、心の底から湧き上がる熱意に突き動かされ、便箋20枚に及ぶ手紙を書きました。文面を要約すると次の通りです。

「株式会社ニッケン様は平成18年に東京進出を予定されているとのことですが、その時の納骨堂の分譲販売は、何としても私にやらせてください。私は広告代理店出身で、販売促進について多少の知識と経験を持ち合わせています。また、実際の販売活動にも幾度も取り組んできました。きっときっと納骨堂建設、分譲販売の仕事で、私以上にその普及活動ができる者はいないでしょう……」
 自画自賛も交えながら、納骨堂に対する思いのたけを綿々と綴りました。

 納骨堂との出会いによって、父母に対する一抹の申し訳なさを償うことができたのですから、東京で私と同じような思いをしている人たちに向けて、納骨堂の素晴らしさを伝えたいという思いがあったのです。

 ほどなくして、加行氏から返信がありました。
「あなたの積極性には驚いています。それに、素人ながらこの世界のポイントをついているようです。またお会いしてお話ししましょう」

 2回目の会談は11月20日。株式会社ニッケンのある宮崎県の門川町で、加行氏と9時間に及び語り合いました。その後、10数回にわたる加行氏との会談は、いつもエキサイトしました。

 この間、私は資金調達を始めました。
 知人の山崎明氏が代表を務める税理士事務所で、事業計画書作成に取り組みました。事務所の一員である川島行政書士との夜を徹しての死闘は生涯忘れることはできません。彼のおかげで、小さな有限会社プランニング甲斐の、大きな事業計画書ができ上がりました。

 この事業計画書を、関東つくば銀行荒川沖支店の小島支店長へ提出。私はツバを飛ばしながら、納骨堂普及事業について力説しました。小島支店長は私の事業計画書を持って茨城県保証協会へ。「ベンチャー企業として認め、低利による融資を受けたい」との旨を、私に代わって申請して下さいました。やがてそれは、ベンチャー企業として認められ、保証協会から融資をしていただくことになるのです。

 2年分の運転資金と準備資金を得て、東京の京橋に事務所を設立。会社も、有限会社から株式会社へと組織変更しました。資本金1000万円とし、納骨堂普及センター設立のための経営母体としたのです。その後、資料収集、取引先との契約、市場調査、人材調達、勤務規定作成、経営基本コンセプト作成と、次々に準備を重ね、現在に至っております。

 あの日、心の底から感じた納骨堂の素晴らしさをひとりでも多くの人たちに伝え、納骨堂文化時代に到達したいと考えております。

どうぞご参加ください。

敬具

平成17年5月9日

納骨堂普及センター
甲斐忠臣

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